どうも!昼スタッフオリハラです!
安田記念・・・そうですか・・・まさかの「的外れ」でした・・
モーリスが負けるならココ!って点だけ当たっていましたが・・・
意味がねぇ!(笑)しかし ロゴタイプ 強かったな・・・
スタッフOKAJIMAさんが名前を挙げたからきたんだ!なんて日だっ!(笑)
そして今週・来週はG1がございませんので。競馬のイイハナシをご紹介したいと思います。
皆様「キーストン」という馬の名前をご存じでしょうか?
この馬、第32回(1965年)の日本ダービー馬なのですが、その功績以上にこの名前だけは知ってる!って方は多いです。この馬の生い立ち(馬生)こそが、競馬の魅力と悲しさを爆発させました。
それでは「キーストン」の強く悲しいお話。お付き合い下さいませ。
デビュー前からとてつもない【前評判】が起こる馬、たくさんいると思います。
競馬はまず【血統】です、シーザリオの息子(リオンディーズ)など、生まれてきただけで
活躍を期待されている馬もいるわけです。
そんな中でこの「キーストン」はいわゆる【落ちこぼれ】でした。生まれつき体も小さく、
「なんだこのヤワそうな馬は、これでレースになるのかねぇ?」
「脚の運びが悪い、競走馬としては難しいかな」 と チラホラ罵声も。
誰もが考えもしませんでした。この馬が5000頭の頂点に立つなんて・・・
~時を同じくして~
とある厩舎にとある冴えない新人騎手がいました。
騎手・山本正司 のちにキーストンの相棒となる騎手です。
たいして結果を残せるわけではない場合、騎手の世界も縦社会。
基本的にいい馬は先輩にとられてしまいます。負けん気だけはあった山本騎手は
「くそ・・俺だってノリ馬にさえ恵まれてれば・・・やれるんだ!」
内なる闘志を秘めた青年は、1頭の馬を任されました。
「山本、お前この馬みろ。多分つかえねーけどな(笑)キーストンだってさ名前」
ここにキーストン&山本コンビが誕生したのです。
笑われていたキーストンがまるで自分のように思えたそうです。
それからの山本は一生懸命キーストンの世話をしました。
脚を少しかばった歩き(人間でいうとびっこを引いているような)歩運びの為
引き運動をたくさんしたそうです。その二人をみて笑っている人間も多数いたとか。
たくさん動いてたくさん食べて・・・・ 仲良くなって信頼して・・・
キーストンはたくましく成長をしていきました。
そしてついにキーストンのデビュー戦。
1964年7月12日、函館競馬場で山本を鞍上にデビュー。この初戦、まさかの10馬身差で圧勝すると、以後これを含め5連勝。レコード優勝3回のうち2つはコースレコードという成績で3歳シーズンを終え、この年の最優秀3歳牡馬に選出されました。(当時の3歳馬というのは現代の2歳馬です)
当初の印象を覆す活躍について、山本は「馬の個性も色々あって、最初からいいのもいるけど、初めはなんだかよくわからなくて、時間が経つに連れていいところが出てくる馬がいるものです。キーストンもそういうタイプだったんですね」と語っている。
そしてついに高みに挑みます。そう、皐月賞です。圧倒的一番人気で挑んだキーストンは・・・
14着・・【嘘のような惨敗】をしました (敗因は騎乗ミス)
このとき、山本は騎手辞めた方がいいんじゃないかな・・・と考えたそうです。
その夜、山本はキーストンの馬房でキーストンに謝ったそうです。人間が馬に。
「俺のせいだ、すまない。お前はどの馬よりも速いよ。ごめんな。」
涙を流す山本に、キーストンは顔を近づけて擦り寄った。
それは馬が人に何かを伝えたいとき、甘えたいときの姿勢でした。
もちろんしゃべれる訳はないのですが、山本はキーストンから
「お前のせいじゃないよ」
と言ってくれていたようでした。と 話しています。
皐月賞の惨敗が「面白くない人」がいます。そう馬主さんです。
馬主はもちろんこういいました。
「あんな新人使ってるから負けたんだ!次はダービーだぞ!騎手を変えろ!!」
それはそうですね、ダービーの優勝賞金は莫大ですから(現代だと2億)
通常、馬主の決定力には誰も逆らえません。
人馬の絆 は 引き裂かれそうになりました。
しかし、そこで誰よりも山本の努力をみてきた2人が馬主に直接頭をさげにいきました。
調教師の松田と、山本の師匠・武田文吾です。
両名は馬主の元に行き、「キーストンには山本が一番合っています」「山本に乗せてやって下さい」と頭を下げたそうです。これには馬主も折れまして。。
こうして、山本はダービー初の騎乗が現実になりました!!
さて・・ダービーの結果は・・
追い込んだライバル馬「ダイコーター」に1馬身3/4差を付けてダービー優勝を果たした。
これにより山本は日本ダービー初騎乗で初優勝という称号を手に入れました。
うだつのあがらない騎手生活でしたが、この活躍でそこそこ騎乗依頼も来るようになり
彼にとって「キーストン」という馬は救世主にもなった訳です。
そこからはもう乗り替わりになることもございましたが、主戦騎手は山本になり、
人馬一体!着々と勝利を重ねていきました。
ココロの通う騎手と馬
基本馬は騎手が嫌いです。鞭もたたきますし、怖いというイメージになります。
しかし、この「相棒」は自他共に認めるゾーンに確かにはいっていました。
ここまででも十分いいハナシなのですが・・・・
【運命の日】が訪れます。
1967年12月17日 阪神大賞典
逃げ馬のキーストンはこの日も先頭を気持ちよく走っていました。
背中には大好きな山本騎手。ゴールまでの先頭は彼らのものと約束されてるはずでした・・
第4コーナーをいつもの通り先頭で回ります。
いつもならこのまま先頭で駆け抜けるキーストン・・・
彼はもっと遥かに遠くの場所まで・・駆け抜けていってしまいました・・・
この日がキーストンの最後のレースとなりました・・・
https://youtu.be/gGiM46P3uTY
直線を向いてスパートを掛けた際、ゴール手前約300Mの地点で故障を発生。
骨折です。競馬ファンならだれもがみてわかる重度の骨折で・・。
もうこの馬はいなくなってしまうんだな・・と誰がみてもわかる骨折でした。
落馬した山本は頭部から落下、脳震盪を起こし意識を失いました。
・・・通常、故障(骨折)を発症した馬は、激痛で暴れまわります。
キーストンは惰性で数十メートルを進んだ後に転倒したが、立ち上がった後に・・・
昏倒する山本を振り返り、なんと・・・
故障した左前脚を浮かせた3本脚の状態で傍らへ歩いていった。
そして横たわる山本の顔に自分の顔を近づけて擦り寄ります。
この瞬間、阪神競馬場はどよめきました。
暴れるどころか、山本を心配して傍らを離れないのです。
この時、山本は一時的に意識を取り戻しており、以降の出来事について以下のように語っている。
「あー、えらいことになった、と思いましたが、気がつくとすぐそばに、キーストンがいたんです。ということは、そこから離れていったのに、また僕のところに帰ってきたわけですよね。そういうことは朧げに理解できました。
それからキーストンは膝をついて、僕の胸のところに顔を持ってきて、鼻面を押しつけてきました。ぼくはもう、夢中でその顔を抱きましたよ。
そのあと誰かが来たので(中略)その人に手綱を渡して『頼むわ』と言ったまでは覚えてるんですが、また意識がなくなりました」
この後、キーストンは苦しまないように【安楽死】を受けました。
山本が再び意識を取り戻し、キーストンの元に全速力で駆けつけますが・・・
再開の時にはもう、キーストンはこの世にはいませんでした。
通常、この安楽死の注射をすると、馬は5分でこの世からさよならをするそうです。獣医さんが
「この馬は小さな体なので、5分もすれば死んでしまうはずでしたが、この世に未練があったのでしょうか。その小さな体で15分弱、耐えていました。」
その場にいた厩務員がポツリといいました。
「・・・やまさんのこと待っとったんやろなぁ・・・。」
山本はその場で崩れ落ち、キーストンを抱きしめて、いつまでも大声をあげて泣いたそうです。そして山本には聞こえてきたそうです、キーストンのあの言葉が・・・
「お前のせいじゃないよ」
1982年生まれの私は、当時はうまれてもいなかったのですが、
この日の阪神競馬場は異例の空気に包まれたそうです。
その様子をみていた誰もが、「キーストンを殺さないで!!」
と、泣いて押しかけてきて叫んでいたそうです。
そして、その騒動に対応するJRAの職員達もこの観客たちを
涙を流しながら必死にとめたそうです。
この美談はTVでも取り上げられて放映されたり
ようつべにも数々の動画があがっています。
https://youtu.be/I9Ch_xBs_WY
モチロンこの話も人間が勝手に判別しているだけで実際のところは解りません。
競馬の魅力は【馬のファンもいるし、騎手のファンもいる】ことです。
どの馬か、もしくはどの騎手かを追いかけると、様々なドラマがあり
より競馬の世界にのめりこめると思います。
長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。